【ゆっくり解説】島津四兄弟九州統一戦その12ー九州征伐~義弘、根白坂で最後の抵抗を試みるも…
51,294
Published 2024-01-26
前回の動画
【ゆっくり解説】島津四兄弟九州統一戦その11ー戸次川の戦い~迷走の末の豊後進攻で豊臣四国勢を撃破!
• 【ゆっくり解説】島津四兄弟九州統一戦その11ー戸次川の戦い~迷走の末の豊後...
前々回の動画
【ゆっくり解説】島津四兄弟九州統一戦その10ー強引な方針転換で筑前に出兵するも岩屋城攻めでの大損害で挫折!
• 【ゆっくり解説】島津四兄弟九州統一戦その10ー強引な方針転換で筑前に出兵す...
【ゆっくり解説】島津四兄弟九州統一戦編の再生リスト
• 【ゆっくり解説】島津四兄弟九州統一戦
【ゆっくり解説】上杉景勝激闘編の再生リスト
• 【ゆっくり解説】上杉景勝激闘編その1ー景勝の生誕から養父謙信の死まで
【ゆっくり解説】武田家滅亡への道再生リスト
• 【ゆっくり解説】武田家滅亡への道編その1-武田勝頼誕生から後継者候補となるまで
【ゆっくり解説】北条家滅亡編の再生リスト
• 【ゆっくり解説】北条家滅亡編その1ー武田勝頼との断交から織田信長との同盟、...
All Comments (21)
-
やっぱり秀長が生きている時の秀吉軍の盤石っぷりは違うなぁ。
-
江戸時代で8公2民って言われた島津家でしたから、新たな領地でも酷い税率を領民に科したのだろうな そりゃ恨まれるわ
-
いやマジで面白い…毎週楽しみにしてます。
-
豊臣軍の物量もさることながら、討伐軍の大将が基本に忠実で、派手さはないが確実に勝ちに行くタイプの秀長 さすがに寄り合い連合軍の状態だったこの時の島津勢では、分が悪い相手だったといえる
-
毎回楽しみに見てます。 今までの11回は何だったんだ?ってくらい唖然とするカタストロフィでした。 今回の義弘のgdgdぶりは「鬼島津」とはまるで別人のような黒歴史っぷりも ゆっくり真実さんの丁寧な解説のおかげでとても分かりやすく理解できました😊
-
九州の島津と関東の北条との決定的な違いは、島津氏は本拠地以外の九州で嫌われている、北条氏は関東の領民、関東の小大名に慕われている点。その土地に住んでいる人間に好かれていないとあっと言う間に領土を失う。
-
この辺りの戦になってくると、ノブヤボの終盤と同じく、オールスターズが綺羅星の如く並んでくるから高揚感半端ない
-
分かりやすい解説ありがとうございます。 九州侵攻は成功したけど、治めることは出来ていない状況がよく分かりました。
-
義弘って典型的な現場監督タイプという感じですね 天正末期から名代やら豊臣政権下での本家と中央政権との板挟み役とか慣れない役回りさせられる事多くて本人ストレス溜まっただろうなあと💦
-
司馬遼太郎、吉川英治、山岡荘八あたりの小説史観に縛られてた自分にとって、一次資料を重視したこの動画はめっちゃ面白くて、全部拝見しました。更新を毎週楽しみにしています。 ただひとつ気になってるのが、「真実の戦国史」ってタイトルが凄く陰謀論者っぽくて損してる気がします。 いっそ「一次資料で見る戦国武将の実像」(固いか(笑))みたいなのもイイかも知れませんね。
-
義久は事態を何とか丸く収め様として、西郷は現場に丸投げしたという違いがあるだけで、薩摩って西南の役の頃と何ら変わらないんだな
-
信長なら多少の融通はきけたかも分からんけど秀吉は融通もクソもないわな 兎にも角にも秀吉を甘く見てたのが島津家の運の尽きだよね……。 あとは魔理沙が言ってたように場当たり的な征服戦争(15:57)の中で積もりに積もったひずみとか歪み、矛盾の連続がいっぺんに噴出したんじゃないかな?
-
戸次川の戦いも 戦国大名同士の 戦いなら 致命傷になったのかもしれないけど 秀吉からしたら指先をちょっと切った程度に過ぎなかったんでしょうね 一発殴ったら100発殴り返される感じですね
-
島津のドタバタ劇、面白いですし コッペパンのBGMもピッタリですし 戦争時のBGMもドタバタ劇にマッチしててBGMだけでも笑えます😂 戦国時代でドタバタ劇で1番面白いのは島津なのかもですねw
-
侵攻先をくじで決められたら、防衛側にしてみたら侵攻先を予測して防御なんて無理になるね。
-
この辺知らないことが多かったので助かる
-
北九州攻防戦で名前が出て来ませんでしたが、大友宗麟の豊前統一をずっと阻んで来た元大内氏家臣の長野氏はもっと評価されても良いと思いますね。 長野氏は宇佐八幡宮焼き討ちで逃れて来た大宮司を小倉北区の到津で庇護をして、門司氏と一緒に強大な大友軍と激戦を続けで来たのです。 もっとも毛利氏と組んでの事ですが、 北九州攻防戦で苅田・松山城で大友軍を撃退し、小早川軍と共に門司城を死守しました。 大友・毛利の手打ち以降はやむなく大友氏に従いましたが、耳側合戦で大友軍が大敗すると挙兵し島津家と同盟しました。 結局、このために毛利軍に攻められて長野氏は滅亡しました。 長野氏は豊臣軍迎撃の為に小倉南区長野にハリネズミ城と呼ばれる縦堀の長野城を築いていましたが、ここでの戦闘は起きず。 小倉南区志井の椎山城では5万の毛利軍に包囲されましたが家臣の堀越太郎が背後から僅かな手勢で突撃をして朝から夕刻まで果敢に戦い、夕陽が沈む頃には堀越太郎以下13名となり、堀越で全員自決しました。 ここには珍しい土饅頭の墓が13基ありました。 残念ながら現在は病院の敷地になって取り壊されました。 さらにその南の小三ヶ岳城・大三ヶ岳城(現三岳梅林)で激しい攻防戦が行われました。 ここに長野氏は滅亡しました。 ですが、大友宗麟の北九州統一の野望を砕いたのは長野氏だと思います。 長々、失礼致しました。
-
南北朝の昔から大友の最終ラインは高崎山なんだよなあ 高崎山に籠って中央の援軍を待つのが大友家のドクトリン 高崎山と浜脇が落ちてなければ援軍は幾らでも上げられる 元々大友自身も征服者だしね
-
大友の家臣団ってほんと有能なんだよな。キリシタンかぶれにさえならなければ余裕で九州統一してただろうに。 まぁキリシタンになったから多くの火器を手に入れられたってのもあるんだろうけど。
-
「島津、ザマァwww」って声が聞こえてきそうだ。