【裏切り→皆殺し】天下人豊臣秀吉に抵抗した奥州武士の悲惨な末路|九戸城の戦い

Published 2023-06-09
九戸城の戦い(九戸政実の乱)について解説します。

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All Comments (21)
  • 「信長の野望」でいつも東北地方から始めるんだけど、政実の騎馬隊が結構強くて毎度お世話になってる。
  • ちなみに関係ありませんが 信直派の筆頭家老の北信愛ちゃんは64歳で信直のお使いで加賀まで外交に行ったり 77歳で関ヶ原の戦いの際にたった十数人で500〜1000の兵相手に守り切ったり 91歳まで生きた高性能じいちゃんであります
  • @user-xs1yd2jf4w
    大体の大河ドラマで奥州仕置の一言で片付けられてしまう九戸城の戦い…
  • @kskksk
    母親の実家なので何度も行きました。 実際に見ると、九戸城は本当に要害堅固だったんだろうなと感じます。 騙し討ちも、現地の説明だと”奥州仕置軍も攻めあぐねて…”といった風な説明だったと思います。 10年ほど前バイクで出かけて現地で数時間昼寝して夕方に目が覚めた時、ひどい悪夢にうなされたのはいい思い出 自分は霊感ゼロだと思ってたけど、あの場所だけは”誰かいる!?”と思っちゃったんですよね。
  • 南部家の相続争いがもとで津軽為信と九戸政実は南部家から独立した。為信は石田三成を頼って秀吉からの安堵を取り付けたが、九戸はその工作をしなかったために南部への反逆者とされ、追討の対象となってしまった。為信は家の存続のために包囲軍に入ったが、落城時に政実の子を密かに保護した。関ヶ原戦後に恩人である三成の息子を匿って家老にしたり、娘辰姫が為信の息子信枚の妻となりその子信義が次の藩主になるなど、実は津軽家には義理堅いところがあることがわかる。
  • 本筋とは離れるけどこれ豊臣秀次が総大将というのが肝なんよね。この戦の帰りに最上家に寄り、駒姫を見初めて側室にするように義光にせまり数年後輿入れさせるが、ちょうど秀次事件の最中で会ったこともないのに助命の連絡が間に合わず他の側室と共に処刑されてしまう。心労で駒姫の母は死んだとも、自殺したとも言われている。このことで最上義光は非常に豊臣家を恨らんで徳川へなびき、長谷堂城の戦いにつながっていく。
  • 「三日月の丸くなるまで南部領」を支えた陸奥の勇将・九戸政実だったけど、処世術が悪かったね。 同じく南部から独立した津軽為信みたいに早くから秀吉相手に誼を通じてれば、あるいは生き残る道もあったかもね。
  • 二戸市が実家なのでとても嬉しい紹介ありがとうございます!九戸城の高台からの景色は素晴らしいです!
  • 変な茶番がない 前振りもない 内容が濃い 最高かよ
  • 岩手二戸に住む人間としてはアテルイ・奥州藤原氏・源義経(平泉)・九戸政実側です。
  • @pontarou01
    九戸政実の奥さんはこの反乱に反対してたそうです。 奥州最強の武将、九戸政実、もしも生きて朝鮮の役に参加してたらどうなってたんでしょうね。 秀吉の奥州仕置が厳しかったのは、大和朝廷から続く中央の奥州に対する差別意識が影響してるそうです。 前九年後三年の役でも降伏した奥羽勢は残虐な殺され方されたそうです。
  • 九戸氏は分家筋だが家臣とも言えない。 室町時代は家臣みたいな同族、家臣、従属的同盟者、旗頭としての同盟者と入り乱れる、あやふやな関係の軍制だったからね。
  • @fantomugodJapan
    秀吉に色々な大名たちが抗う理由は大きく分けて3つある 1.その出自から舐められている 2.主君敵討ちとはいえ実権を握ると主家を乗っ取る 3.多くの条約を無視して氏政や政実などを殺したりと約束反故が多い これらがあったからでしょうな
  • @user-tm5kh2cw6e
    九戸政実は現在でも地元では名君・猛将として慕われており 三戸から盛岡に移った南部本家の領地でも裏切り者扱いする人は少ないよ。
  • 九戸城、行きました。断崖の下から見ると存在感はかなりありました。ちょうど発掘調査をしているところでその様子を見ることが出来ました。布陣図を見ると、この時代にしかありえない武将たちが揃っていますよね。
  • @sib_ginko6705
    とんでもない厨パ組む秀吉で笑ってしまった
  • 取り上げてくださりありがとうございました。
  • @RN-rl2du
    確か安倍龍太郎氏の「冬を待つ城」の作品のモデルとなった戦いですね。 あれめっちゃいい本でした。